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毛沢東サイドエピソード:その1

毛沢東についてのサイドエピソードを色々。ネタ元は特に記述がなければ『ニュー・エンペラー 毛沢東と鄧小平の中国〈上・下〉』です。

毛沢東は極度の便秘症

以下、『ニュー・エンペラー 毛沢東と鄧小平の中国〈上〉』より引用。

毛の通じの問題は深刻で、それらは身体上と同様政治的にも重要性を持っていた。便秘が四日も五日も続いたときには、毛はおこりっぽく、いらいらしていた。(p.35)
彼が便秘のときには、しばしば衛兵たちは彼の肛門を指で押し上げ、糞便を取り除かなければならなかった。毛は用を足すために、畑に一人で行くのを好んだ。「便所は臭すぎる」と、彼は文句を言った。彼の護衛長、李銀橋は、毛が畑にはいると時折肥料として使われている人糞の一片をつまみ上げ、しゃがみこむ前にその臭いを嗅ぐことに気づいた。彼は毛の行動を理解できなかった。毛は彼に言った。「いやあ、用を足すときはしゃがんで考えごとをするのが好きなんだ。あまりに臭いと考えごとができないんだ(5)」。(p.35-36)
(5)権延赤『衛士長談毛沢東』〔田口佐紀子訳、竹内実監修『人間毛沢東』徳間書店 1990年

彼の便秘は中南海の彼の部屋に西洋式の磁器の便器を入れた革張りのイスが導入されて解消した模様。 (Harrison E. Salisbury,Long March, p.121岡本隆三監訳『長征』〕。李鋭、ソールズベリーインタビュー1984年、10月26日北京。)

毛沢東の祖先は皇帝周文の子、毛伯章?

本当か嘘かは置いておいて、毛沢東の祖先は周文の子、毛伯章に行き着くらしい。毛沢東は自身の家系図を封印し生前は一切公開しなかった。1988年に吉林人民出版社が初めてそれを出版した(新晩報(香港)、北京特派員、吉林賞人民出版社版、Foregn Broadcast Information Service(Washington D.C.)December 11, 1989, p.25から引用)。

『ニューエンペラー』ではこれ以上の注釈もなく、よくわからない。この「周文」が殷代の周文王を指すのか、それとも陳勝・呉広の乱の時に祭り上げられた陳の周文を指すのか、それとも別の周文か、よくわからんしどうでもよい。『ニューエンペラー』でも、もし彼が望めばアイルランド国王とのつながりのある家系図を作ることもたやすいだろうって皮肉ってます。

毛沢東は富農の子

毛沢東一族毛沢東の父親は地主で金貸し、穀物取引業者であった。その為、彼は子の毛沢東に学問より帳簿の付け方、利子の計算を教え込む。これに反発し、独学し教師となりもう少しで学者になるところであった。写真は、長沙で撮影されたもの。毛沢東(右端)と父の毛貽昌(左から2人目)、叔父の毛福生(右から2人目)、弟の毛沢覃(左端)。

毛沢東は仏教徒

毛沢東は父親には反発し、母親になつき育った。その母親は熱心な仏教徒であった。鄧小平の父親も仏教徒で、彼もまた仏教徒として育った。

マルクス・レーニンの著作は持たず。

1949年、毛沢東が北京入城の際に側近に命じて帯同させた書物の中にマルクス・レーニンの著作はなく、『辞海』と『辞源』の2冊の辞書と『史記』と『資治通鑑』の2冊の歴史書。

毛沢東が中南海入りする準備を進める中、彼の書斎に大量の書物が運び込まれた。ここでもマルクス・エンゲルスの著作は数冊しかなく、レーニンに至っては全くなかった。そこで側近が「嘘でもいいからそろえろ」と命じたと伝えられている。しかしこの話の真偽は疑わしいようだ。 この話の出所は、王宏世(毛沢東の書籍を管理、執筆した人物)、張然信(哲学・社会学関係書籍担当)へのインタビューであるが、張治(北京国立図書館古典専門家)は、毛沢東自身がマルクス・レーニンの著作を置くように命じた可能性もあると話している。

蒋介石の車で北京入城

1949年、列車で清華駅に入り、そこから頤和園まではアメリカが蒋介石の為にデトロイトで作った防弾装備のドッジ・リムジンで移動している。

その後、香山まではアメリカ製のジープで行軍。

蒋介石の列車でソ連入り

1949年12月、毛沢東は初めて中国を離れ、初めての海外、ソ連へ向かった。その時乗車した汽車は、蒋介石が南京と上海を往復するために作った特別装甲汽車であった。温暖な地域を走るために作られた汽車であったので、暖房がなかった。極寒の地を暖房もなく走った。ソ連中国国境でやっと暖房の効いたシベリア鉄道に乗り換え7日かけてモスクワに到着した。

毛沢東以外の革命戦士たちはモスクワやフランスなどに留学したりしていたが、彼自身は2度しか海外を訪れておらず、ともにモスクワである。

スターリンと毛沢東
1949年12月~1950年2月の訪ソ時の写真。

スターリン70歳の誕生日の贈り物は玉ねぎ

中国では古来から中国皇帝が他国に出向く習慣がない。中国は世界一で中心であり、周りの国々が中国に貢物をする(朝貢)べきという考えがある。毛沢東は高価な贈り物を贈ることを嫌ったのか、江青が提案した玉ねぎ、白菜、金柑などの山東野菜を採用している。

当時のソ連機関紙『プラウダ』にはスターリンへの贈り物を毎日掲載していたが、玉ねぎ、白菜は出てきていない。金柑についてはスターリンが「柑橘類の王様」と呼んだと記録に残っている。

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