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毛沢東サイドエピソード:その2

毛沢東についてのサイドエピソードを色々。ネタ元は特に記述がなければ『ニュー・エンペラー 毛沢東と鄧小平の中国〈上・下〉』です。

毛沢東は歴史書が大好き

毛沢東は中南海の書斎に膨大な量の書籍を運び込ませたが、中国の正史である『二十四史』を読み、研究し続けた。側近の1人である李鋭は「王朝の変遷に興味を示した」と回述している。三国志時代、明から清への移行、6・7世紀の南北朝時代を特に研究していた。

毛沢東の象牙の拡大鏡これは視力が衰えだした晩年も続き、毛沢東は新華社通信に命じて字の大きな版を作らせている。それでも『二十四史』を読破できなかったことを晩年になり悔やんでいたという。

この字の大きな書籍は歴史書だけではなく、ナポレオンの伝記三巻と中国のユーモアを集めた本も命じて作られた。どのような冗談を集めた本であるのかは明らかになっていない。

中国の歴史書には帝国、人間の盛衰や思想など、あらゆることが書きとめられている。政治指南書であり、社会学の大著であり、軍事の大著でもある。そして哲学書でもある。

写真は、1951年3月に上海の九三学社から毛沢東に贈られた象牙の拡大鏡。

毛沢東は4度結婚している

毛沢東と賀子珍毛沢東がまだ父親の元で生活していた頃に、見合いをしている。これに彼は激しく反発し、幸せな結婚ではなかった。2度目は1920年に楊開慧と結婚している。しかし彼女は国民党により逮捕され、1930年に長沙で処刑された。彼女との間にできた子供、岸英は朝鮮戦争に出兵し1950年11月25日に米軍の爆撃により死亡している。

1927年から毛沢東は井崗山で3人目の妻となる賀子珍と共に生活していた(写真は毛沢東と賀子珍)。しかし、長征後の1937年に離別。4人目に江青が登場する。

毛沢東の生活

日本軍、国民党とのゲリラ戦のせいか超夜型人間。起床は昼頃。国家レベルの会議などやもえない場合以外は、晩年までこのスタイルを続ける。

晩年になりやっと寝巻きを着て寝るようになったが、それまでは裸で寝ていた。

毛沢東の常備薬長征の仲間達と同様、毛沢東も睡眠薬を常用していた。少しの時間眠り、起き、お茶の葉っぱを食べて(大量のカフェインを摂取)し目を覚ますということを繰り返していた。1週間の平均睡眠時間は30時間を越えることはなかった。写真は、実際に毛沢東が摂取していた常備薬。

毛沢東のパジャマはつぎはぎだらけ

毛沢東は、ずーと同じパジャマを着続けた。1962年に側近の一人が「そろそろ新しい物に代えたらどうでしょうか」と話したところ「私の国家は貧しい。綿花は配給である。破れればツギを当てればよい」と言い取り合わなかったという美談が語り継がれている。愛用のパジャマは、67箇所ツギが当てられ、襟や袖もめちゃくちゃ。クリーニング屋が破れるのを恐れて絞るのを躊躇ったほど。(ソース:新華社

毛沢東は金嫌い

「1元札を持つことは手を汚す」と言って、紙幣を見ることさえも拒んでいたらしい(李銀橋談)。

毛沢東はダンス好き

延安時代、共産党幹部の間で西洋式ダンスが大流行し、毎土曜日の晩にダンスパーティーが行われていた。林彪と周恩来がもっともうまかったようだ。鄧小平は決して参加しなかったらしい。

毛沢東は演奏されている音楽を全く無視して、京劇のリズムで踊っていた模様。あまりうまくなかったということですね。このダンスパーティーは中南海でも行われていた。

毛沢東は水泳が大好き

中南西湖畔には1933年に作られたプールがあった。北京市民の憩いの場であったが、毛沢東入城後は、一般人の立ち入りが禁止され、党幹部専用となった。

この中南西湖畔のプールは温水プールではなかった。水泳大好き毛沢東は、当時唯一の温水プールが清華大学にあり1954年の冬には3ヶ月間毎日通った。1958-59年に彼は、中南海の中にオリンピックサイズの温水プールを作らせた。

毛沢東が全国各地を訪ねる時には、その訪問地は立派なダンスフロアと温水プールを準備して毛沢東の要望に応えられる準備をしていた。

護衛が「嵐の時は水泳を控えるように」といっても聞かず、「波をつかまえられるぞ」と言って飛び込み、口いっぱいに砂を含みおぼれて護衛に救助された直後でも「もう一度行こう」と彼は叫んだ。(権延赤『衛士長談毛沢東』p.10-15〔田口佐紀子訳、竹内実監修『人間毛沢東』徳間書店 1990年〕)

プールの中で中ソ首脳会談

1958年に北京で行われた毛沢東とフルシチョフの会談の2日目は、プールの中で行われた。フルシチョフは泳げず、緑色のトランクスに不恰好な救命胴衣をつけて会談に臨んだ。通訳たちはプールの周りを小走りに走りながら両者を通訳を行った。

スターリン時代に冷遇された腹いせと、中国側がソ連を出し抜き、立場の逆転を象徴する出来事。ちなみにソ連側の記録には「プールの中での会談」については一切触れていない。ただ当時ソ連側の通訳を務めたニコライ・フェデレンコは30年後に「そこで起きたことには未だにビックリしている」と述べている。

毛沢東はセッ○ス狂

毛沢東は自室で思いのままにメモを取っていたようだ。その時々の気分であったり、政治的な事柄であったりもした。それらはゴミ箱の中から側近が拾い集め、密かに保管していたらしい(李鋭談)。また自分自身の個人的な記録も取っており、その内容は性的なものまでも含んでいた(中南海医師、李之随談)。李は「毛沢東をセックス狂だ」とみなしていたという。(『ニューエンペラー上』第六章 注釈17)

幹部の一人康生は、毛沢東の春画集めに多大な貢献をした。康生は江青を毛沢東に引き合わせた人物であり、その後も毛沢東の踊り子達を調達し続けた人物でもある。江青が10代の頃、康生の邸宅で下女として働いていたという噂がある。

「彼のベッドは若い女でいっぱいだった」(ルイ・アレイ、ソールズベリインタビュー:1987年10月21日北京)

康生は毛沢東の性癖を満たすのに大いに活躍したが、彼自身も旺盛で次のようなエピソードがある。

紅衛兵によって通りに放り投げられた古い手稿や絵画の山を漁り、焼き捨てられてしまう前に、なかから貴重な春画を見つけだしては自分の懐に入れた。

ニュー・エンペラー 毛沢東と鄧小平の中国〈下〉(p.14-15)』より引用。

豚肉を拒み続けた毛沢東

大躍進政策で農村で食料が底をつき、餓死者が年々増加していた時期、毛沢東は豚肉に箸をつけなくなった。58年ごろに公式に毛沢東に地方の惨状を報告したという記録は残っていないが、おそらく知っていたと思われるエピソードのひとつ。豚肉だけでなく、食卓に座ってもタバコを吸うのみで、食事を摂らなくなった。護衛たちが食事をすすめても「だめだ。農村には豚肉がないのだ。」と。まっ、彼の行動は農民達を助けるのに何の役にも立たなかったが、毛沢東自身の気持ちを静めるのには役立った。ソールズベリは「中国は飢え、毛沢東は個人的にダイエットをしていた」と皮肉っている。

このようなエピソードがある一方、正反対なエピソードもある。大飢餓が始まっていた1958年に秘書の李鋭は、夜中に毛沢東に誘われ「熊の手のひら」などの高級珍味を食していたりする。

同様のエピソードは『毛沢東の私生活(下)』の中にも見られる。ここでは、豚肉だけでなく、あらゆる肉を絶ったとある。しかし、ソールズベリと同じく李志綏も「飢餓になんの影響ももたらさなかった」と記している。

激情家毛沢東

京劇の「白蛇伝」に感動し突然泣き出したことがある。李銀橋によると「それは前後不覚で泣きわめくようだった」と。その劇に熱中するあまり、芝居中に大声を上げたり、足をばたつかせたり、タバコの火が指を焦がしても気づかなかったらしい。

また、当時京劇を鑑賞する際には楽に座れるように毛沢東はベルトを緩めていた。それを忘れて立ち上がり拍手。ズボンがずり落ちるのも気にせず、号泣。京劇が終わると、片手でズボンを抑えながら舞台へ駆け寄った。